少年志願兵

 昭和二十年二月、私は所沢陸軍整備学校東村山分校に入隊した。青タンという星 のない階級章をつけた陸軍航空少年兵として。
 あの時代は、二十歳を迎えると男は誰でも徴兵検査の通知を貰い、兵役の義務を 免れることはなかった。まして世界中が戦争の渦中にあって、日本はその元締めの ような陸・海軍を擁していたのだから、少々体力が華奢な者でも容赦なく、お国の ためにご奉公しなければならなかった。なにしろ「甲種合格」のお墨付きが幅を利 かせていた時代、つまり軍国日本の男子としては、遅かれ早かれ兵隊にとられるの なら「歩兵」になるよりはもっと恰好のいい兵隊になりたいと思った。
 はじめに憧れたのは陸・海を問わず、軍楽隊で音楽をやることだった。なんとか 筆記試験の方は通っても、体格検査では見事に落とされた。ちびの私ではどうにも 恰好のいい軍楽兵にはそれだけで向いていなかったのだ。私も己を知らな過ぎたよ うだ。
 軍国日本も大和魂だけではどうにも勝てなくなり、あちこちで苦戦を強いられ、 灰色の影に包まれはじめたせいか、検査の規格が緩やかになったのだろう、私にも 合格通知が舞い込んだというわけだ。
 私は入隊の数日前、近所には一切なにも告げず東京の兄の家から行くことにした。 もしかして当日の体格検査で帰されることにでもなったら、という危惧の思いから で、それほど自分の体には自信がなかった。とにかく私は兄夫婦に付き添われて兵 舎の門をくぐった。
 各内務班に配分されると、廊下を挟んで左右の部屋に並べられたベッドがそれぞ れに与えられた。その壁側には棚がつってあって、ここが一切私物を廃したこれか らの生活空間、居場所なのだ。廊下側には窓のかわりに銃架があって、そこにはぴ かぴかの最新式九九式小銃が立てかけてあった。これがおそれ多くも陛下から貸与 された軍人の魂で、一日一回使用の如何に関わらず、手入れしなければ寝かせても らえない厄介な代物であった。就寝前の週番士官の点呼のときにはその状態が必ず チエックされた。この内務班の生活が軍隊生活の半分で、ありがたかったことは一 応学校なので、古参兵のいじめには遭わなかったかわり、軍曹の班長にはかなりし ごかれた。

 あの日の夜、この内務班の窓から見た米空軍B29爆撃機による東京大空襲の空を赤 々と焦がした光景は、今でも私の脳裏に刻印されたままだ。

 学校といっても、学科らしいこと、教室の机に座ってということは殆どなくて、整 備兵なのに半年の間に古い発動機の分解を一回、苦手な半田付けを一回。私の身につ けたものは徒手訓練と、使役つまり重労働の苦労だけで、教材の旧い双発機を近くの 山林に運んだり、トラックの待避壕を掘ったり、営庭に敵機の襲来に備えた蛸壺を掘 らされたりで、体力のない私にはかなり応えた。そして半年はあっという間にすぎ、 私たちはいきなり星三つの上等兵に進級させられた。私は何をやっても要領が悪く、 本来なら絶対進級するはずがないと、自分でも不思議に思えたが、ここでの成績は将 来下士官を目指すときに大きな壁になることのようだと、ささやかれた。その八月が 敗戦になるとは、私の少年兵志願がもう少し早く実現していたら、あるいはどこかの 戦線で死んでいたかもしれない。
 八月十五日の終戦で、私は軍隊の矛盾から解放されることの喜びを、じんわり感じ ていたが、いわゆる上官の班長たち職業軍人には、一切が無になる瞬間で、地団駄踏 んで悔しがっていたのが印象的だった。
                   詩誌『明日』2013年版20号より